私は、高校を卒業し東京電力株式会社へ入社し社会人の仲間入りをしました。初めて「政治」に携わった時期は20代前半の時でした。先輩からの依頼で選挙活動を行いましたが、その時は、候補者がどういう方とか一切関係無く、「先輩のために」という思いだけで活動をした事を覚えています。その後、東京電力の労働組合「東電労組」にて支部の役員を任命された経緯もあり、政治について学ぶ機会や政治活動や選挙運動を行いました。

ただその当時は、自分から関心を持ち取り組んだという事ではなく組織の一員として「与えられた仕事」としての取り組みでした。

今思うと、転機が訪れたのは結婚だったと思います。妻とは3年程交際し、お互いが結婚を考えるようになりました。その時初めて義父が市議会議員を行っている事を知りました。結婚後は、山梨県で生活していましたので、福井への帰省は年に2~3回程度でした。帰省した時には、父と「男友達」のような感じでの付き合いでしたが、政治の話をした事はありませんでした。結婚した翌年に義父の選挙があり、選挙期間の1週間しか経験しませんでしたが初めて「選挙」というものを身内という立場で経験し、政治や選挙、行政に関心を持つようになりました。平成15年、義父の県議会議員選挙がありました。前年の夏頃、電話で父と話をした時「今回の選挙は鯖江市のために政治生命をかけて戦う」という事を聞きました。その時には正直ピンときませんでしたが、帰省した際にじっくり話を聞く機会がありました。鯖江市の現状、近隣市町村の現状、市民の声、行政の考え、これから歩むべき方向性、そして今度の選挙戦等々。事態を把握したうえで、父の「政治生命をかけて戦う」と決断した事実を、一人の男として尊敬し誇りに思えました。

山梨へ帰ってから妻と色々相談し、福井へ帰る事を決めました。その事を、義父母に伝えると意外な答えが返ってきました。「福井に帰って来ても景気は良くないし、就職先も見つからないかもしれない、こっちの事は気にしないで山梨で生活すればいいよ。」私は拍子抜けしたと同時に、心の底から私達の家族の事を思い・考えてくれているのだと非常に嬉しく思いました。それから数ヶ月、妻と何度も話し合いを行いました。そして「不安な事は数え切れない程あるけど、縁あって息子になったのだから、一生に一度くらいは息子らしい事をしたい。父が、自分の最も大切にしている政治の道をかけた戦いを共に戦いたい」そんな一身で、福井への移転を決め、会社へ辞表を提出しました。

帰る事を電話で伝え、とっても嬉そうな声を聞いた時、本当は帰って来て欲しかったはずなのに、その言葉を言わなかった親心に言葉が出ませんでした。ただ、生まれ育った大好きな山梨、そして大切な両親や兄弟、大好きな仲間達と離れる事は予想以上に辛いものでした。

選挙の約4ケ月前には引越を終え、後援会活動や選挙準備の日々を送りました。新生活は選挙一色の中で私も無我夢中の毎日で、子供には新地の生活に、とても不安な日々を過ごさせてしまったと思います。この選挙戦では御支援頂きました方々に非常に申し訳ない結果となってしまいましたが、月日が経過し支援頂いた方々と義父の考え方が間違いが無かった事が実証されたように思っています。

私にとっては非常に大切だと思っていたモノを幾つか捨て、この地で骨を埋める決心をして移転してきましたので、早く地域に馴染みたい、一人でも多く友達がほしい、仕事も安定させたい、その一身で今日まで日々の生活を送ってきました。この間、新しい仕事に悪戦苦闘しながらも、素敵な出会いが沢山訪れてくれました。鯖江商工会議所青年部と出会い、若鯖塾と出会い、吉川地区体育協会と出会い掃除に学ぶ会と出会い、鯖江青年会議所と出会い、その中で多くの方々と出会い暖かい言葉をかけていただき、皆さんの仲間の和に入れていただく事が出来ました。その中で、地域の事・自己啓発・人づくり・街づくり・経営・ボランティア等々、様々な事を教えて頂きました。そんな日々を送っているうちに、この街がドンドン好きになっていきました

そんな中、今年の1月頃から、「政治や行政にもっと携わりながら、この街をより良くしたい」と思い三ヶ月程、自分自身で考え・悩んできました。家族の事、親戚の事、熊田町の皆さんの事、地域の皆さんの事、義夫を支えて頂いた方々の事、そして何よりも今の自分に何が出来るのか、自問自答する日々が続きました。そして私が出した結論は「今の自分には出来ない。政治の道ではなく、他の方法でこの街をより良くして行こう」というものでした。
 
この時点での私の考えはこうでした。

父が政治の道を歩まさせていただいた中で、家族・親戚・町内・地区や支援して頂いた方々には、言葉では言い表せない御苦労や御迷惑を沢山かけてきた。もうこれ以上、御苦労や御迷惑をかける事はできない。まして39才で若輩未熟な私、幼馴染や同級生もいない私に、選挙という「厳しい戦い」の中で支援して頂ける方が何人いるだろうか。いや、きっといないだろう。政治についても、まだまだ勉強不足。資金の当ても無い。こんな現状で、家族や親戚、町内や地域の方々が許してくれるはずがない。

やっぱり無理だ。

答えを出した時「この事は当面考えないようにしよう」と決め、仕事や各種の活動に没頭しました。しかしそう決めてから5日間、自分に嘘偽りを持って生きてる様な気がして仕方がありませんでした。4月14日、久しぶりに会う友人達と楽しい時間を過ごし深夜に帰宅。床に着いた時、ある言葉が急によみがえりました。その言葉は、私が3年前に若鯖塾のコーディネーターである上甲晃塾長(現在「志ネットワーク」主宰、前「松下政経塾塾頭」)に言われた言葉でした。

『本当に地域を良く出来るのは「よそ者」「わか者」「ばか者」の3つが揃っていて高い志を持っている人だけである。』

「よそ者」は、妙なしがらみが無く行動できる。良いところ、悪いところの他所との比較もできる。「わか者」は、行動力がある。斬新な発想もある。 「ばか者」は、損得勘定なしで行動できる。そして「高い志」とは、全ての言動に「みんなのため」という言葉がつく崇高な思いを持つこと。

この言葉を思い出した瞬間、いままでの私の考えていた事が全て崩れていきました。私は、自分が出来ない理由を探し、その答えに真の自分自身の考えとは違う答えを当てはめていた事に気が付きました。

私に出来る事を全力で精一杯する事で、この街をもっともっと良くする事ができるはず。私は自分が経験してきた事でしかこの街をより良くする事はできないけど、私が39年の短い人生の中で経験してきた事は 

〇バレーボールというスポーツに青春をかけ20年間続けて来た事。その中で、人間教育もして頂いた事。
〇13年程前に父が脳梗塞で倒れ、身近に障害者がいた事。
〇子育て世代である事。
〇福井県以外で生活をしていた事。
〇サラリーマンと自営業を経験した事。

この実体験から、必ずこの鯖江のお役にたてるはず。

そう思えた瞬間、今まで胸の奥に仕えていたモノが全て取れ、とてもスッキリした気持ちになりました。明日、妻に話そう、そう決心しました。しかし、猛烈に反対されると判っていたので、なかなか言い出せませんでした。結局話せたのは2日後の事でした。「次の選挙に出たいんだけど・・・」残りの大切な色々な事を話す前に「ダメ、絶対にダメ」の一言で話は終わってしまいました。

それから、何度も何度も日を替えては話をしました。妻の反対も、痛いほど理解できました。涙を流しながら「お願いだから諦めて」と言われた時はとても辛く、気持ちが揺らいだ時もありました。

話し合いを続けた6日目朝、長い話し合いの末、妻が承諾してくれました。あの時、二人で流した涙と思いは生涯忘れません。そして妻と幾つかの約束を交わし、その後、義父母と話し、なんとか家族の承諾を得る事が出来ました。私は即、区長さんへ連絡し、会いに行きました。そこで、私の考えや思いを伝え、熊田町の皆さんの御理解と御協力が無ければ絶対に出来ない事でしたので、緊急総会で御判断を仰ぐ事とさせていただきました。4月28日、町内の方々にお集まりいただき、今回の経緯、私の思いや考えをお伝えさせていただき、皆さんのご意見をいただきました。私の住む「熊田町」の方々は本当に心温かい皆さんでした。厳しい御発言や御意見も頂きましたが、全て私の事を心底考えていただいての御発言や御意見でした。結果、御推薦と御支援を頂戴し正式に緒準備に入る事ができました。そして、5月9日には吉川地区区長会に於いて、吉川地区としての御推薦を頂戴いたしました。

現在は、吉川地区各町の区長様へ、御推薦をお願いしながら御町内への後援会活動の御挨拶回りへの御同行をお願いさせて頂いております。

【早期に御挨拶させて頂かなければいけない状況ではありますが、急ぐあまりの私の身勝手な行動で各区長様や御町内の皆様方に不快な思いをさせてしまう事だけは避けたいと考え、順序を踏みながら活動させて頂いております。大変申し訳ありませんが、御理解いただきたくお願い申し上げます】

佐々木勝久(ささき かつひさ)は鯖江のために、皆さんと共に考え・共に行動します。

☆新しい風を起こして~この街で生きていく市民の一人だからこそ~
      〇「議会は追認機関ではない!」行政を厳しくチェックします。
      〇「現場第一主義!」市民の声を行政に届けます。
      〇若者達が、行政や政治に関心がもてるように対話し、若者の意見を行政に届けます。

☆スポーツを通じて~バレーボールに青春をかけた経験を生かして~
      〇「心と体の健康増進」に取り組みます。
      〇「人材の育成」「心の教育」に取り組みます。
      〇「地域の活性化」に取り組みます。

☆心安らぐ癒しの街づくりを目指して~100年後の郷土に住む人々を思いながら~
      〇子育て世代が安心して生活できる街づくりを行います。
      〇愛する子供達や孫達、その次の世代へツケを回さない街づくりを行います。
      〇市民が笑顔で暮らすために「個性」に対応できる街づくりを行います。

地域の皆さんのために!笑顔あふれる街のために!子供達や次の世代のために!
志と情熱と勇気を持って、全力で行動します。

H19.5.13